2009年06月25日

第二次世界大戦の直接の原因となった

第二次世界大戦の直接の原因となったドイツ東部国境外におけるドイツ系住民の処遇の問題は、最終的解決を見た。問題となっていた諸地域からドイツ系住民の大部分が追放されたことによってである。ドイツはヴェルサイユ条約で喪失した領土に加えて、中世以来の領土であった東プロイセンやシュレジエンなどを喪失し、ドイツとポーランドとの国境はオーデル・ナイセ線に確定した。

戦勝国となったアメリカ、イギリス、フランス、ソ連、中国はその後核兵器を装備するなど、軍事力においても列強であり続けた。この5か国を安全保障理事会の常任理事国として1945年10月24日、国際連合が創設された。国際連合は、勧告以上の具体的な執行力を持たず指導力の乏しかった国際連盟に代わって、経済、人権、医療、環境などから軍事、戦争に至るまで、複数の国にまたがる問題を解決・仲介する機関として、国際政治に関わっていくことになる。

だが戦勝国も国力の疲弊にみまわれた。東南アジアでは、日本が占領した植民地をアメリカ、イギリス、フランス、オランダが奪回し、宗主国の地位を回復したが、一方で、日本軍占領下での独立意識の鼓舞による独立運動の激化、本国での植民地支配への批判の高まりといった状況が生じ、疲弊した宗主国にとって植民地帝国の維持は困難となった。その後1960年代までの間に、多くの植民地が独立を果たした。その意味においても、世界を一変させた戦争であった。

第一次世界大戦の戦後処理では敗戦国の戦争指導者の責任追及はうやむやにされたが、第二次世界大戦の戦後処理では、国際軍事裁判所条例に基づき、戦争犯罪人として逮捕された敗戦国の戦争指導者らの「共同謀議」、「平和に対する罪」、「戦時犯罪」、「人道に対する罪」などが追及された。ドイツに関してはニュルンベルク裁判が、日本に関しては極東国際軍事裁判(東京裁判)が開廷された。ドイツではヘルマン・ゲーリングら、ナチスの閣僚、党員、軍人、関係者ら訴追され、ホロコーストや捕虜虐待などに関して、それぞれ絞首刑、終身禁固刑、20年の禁固、10年の禁固、無罪などの判決が下された。日本では戦争開始の罪、中国、アメリカ、イギリス、フランス、オランダ、ソビエト連邦への侵略行為を犯したとして、東条英機ら28名が戦犯として訴追され、絞首刑、終身禁固、20年の禁固、7年の禁固刑などの判決が下された。
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この裁判では、戦勝国の行為については審理対象外とされたため、連合国側が枢軸国側に対して戦時中行なった国際法違反の戦争犯罪―広島・長崎への原爆投下、ドレスデン大空襲、ハンブルク大空襲、東京大空襲・大阪大空襲など、民間人に対する無差別戦略爆撃は、連合国側の爆撃の方が、枢軸国のものより遥かに大規模であった。また大戦初期のソ連によるポーランド[26]、フィンランドに対する侵略。大戦末期のベルリンなど、ドイツ国内におけるソ連兵による虐殺、捕虜虐待、残虐行為や略奪行為。さらに中立条約を結んでいた日本や満洲国に対する侵攻・略奪行為。降伏後の日本の北方領土に対する侵攻・占拠-などについての責任追及は全く行われていない。 また、東欧諸国のドイツ系少数民族の追放やドイツ兵や日本兵のシベリア抑留など戦後の事例について、戦勝国側の加害責任を訴える声も大きいものの、同じく不問とされている。

また東京裁判においては、投獄されていた岸信介がアメリカとの政治取引で釈放された。またサンフランシスコ講和条約締結後は、終身禁固刑を受けた戦犯も釈放される一方、上官命令でやむをえず捕虜虐待を行った兵士が処刑されたりするなど、概して裁判が杜撰であった点は否めない。さらに「人道に対する罪」という交戦時には無かった事後法によって裁くなど、原理的な疑義も指摘されている。

日本では、それら連合軍の残虐な行為が全く裁かれなかった事を、戦勝国のエゴ、勝者の敗者に対する復讐裁判として否定する意見が存在する。また、日本に対する戦争裁判を罪刑法定主義や法の不遡及に反することを理由として否定する意見もある。罪刑法定主義や法の不遡及を守りながら日本の戦争犯罪を裁けるのか、あるいは裁くべきなのか、またその判決が世界に受け入れられるのか、人道罪を否定した場合、虐殺など戦争犯罪を止めることができるのか、など難問は多い。

2009年06月10日

憲法において福祉主義が採られるのは

憲法において福祉主義が採られるのは、資本主義の高度化は貧富の差を拡大し、夜警国家政策の下では、経済的弱者の生活水準の確保ないし個人の尊厳の確保が困難となったからとされる。

その内容を人権面と統治構造に分けると、

人権 社会権の保障 25条?28条
統治 積極国家化(行政国家化)
が挙げられる。

ただし、積極国家化は自由主義原理と緊張関係にあり、一定の限界があるともいわれる。

現代においては、初期の自由政策的な経済によって貧富の格差が生じたことから、自由主義は、社会権(所得の再分配など)による修正を受けるようになった。他方で、現代民主主義が個人の自由の保障に強く依存するのにともなって、自由主義は飛躍的にその重要度を増した。特に、ナチス・ドイツが民主制から誕生し、甚大な惨禍をもたらしたことから、国民の自由を保障できない制度は、民主主義といえないことが認識され、自由主義と民主主義が不可分に結合した立憲的民主主義(自由民主主義)が一般化し、自由は、民主主義に欠くことができない概念として多くの国で認知されるようになった。日本国憲法でも、個々の自由と国家が衝突する場面において、自由を優先させる趣旨の規定が見られる(違憲審査権による基本的な人権の保護など)。

平等主義
平等主義は、原則として、「機会の平等」(自由と結びついた形式的平等)を意味し、内容としては、
頭痛
オーパーツ
社交ダンス
惑星
ラフティング
爬虫類
キャンプ
流鏑馬
犬ぞり
華道
日本の建築
家電の昔
江戸の歴史
湯・茨城
湯・山口
安土桃山時代
湯・長崎
裁判所について
アリさんの一日
カラオケ・ばんばん

人権
法の下の平等 14条1項
両性の本質的平等
等しく教育を受ける権利
統治
平等選挙 44条
普通選挙 15条3項
貴族制度の否定 14条2項
栄典の限界 14条3項
が挙げられる。

ただし、資本主義下で貧富の拡大した状況下での弱者の個人の尊厳確保のための修正理念として、平等の理念には「結果の平等?条件の平等」(社会権と結びついた実質的平等(福祉主義))も含むとされる。

人権保障の限界
憲法における自由主義ないし人権保障とは、国家から侵害を受けないことを意味する。そして、人権が不可侵のものとして保障されている以上、国家は人権を制限できない(国会は人権を制限する法律を制定できず、行政権は人権を制限する行為ができない)のが原則である。

しかしそれでは、例えば通貨偽造を犯した者を処罰することもできず、他人の名誉を毀損する言論を制限することもできず、およそ近代国家は成り立ち得ない。そこで、一定の場合には人権を制限できる(国会は人権を制限する法律を制定できる)とすべきとの価値判断がなされる。

人権を制限できる場合としては、「憲法が特に認めた場合(18条等)」があるが、それ以外にも一般に「公共の福祉」12条を根拠に制限できるとされる。

公共の福祉を根拠とする人権制限
公共の福祉を根拠に人権を制約できるとされる場合、どのような基準・範囲で人権を制限できるか、すなわち「公共の福祉」の意味については争いがあり、22条や29条のような明文がある場合に限って制限できるとする説もある。しかし、通説は、すべての人権について制限が可能と解しており、その理論構成として「公共の福祉は各個人の基本的人権の保障を確保するため基本的人権相互の矛盾・衝突を調整する「公平の原理」であり、したがってすべての人権について制限できる」との論旨を主張している。(一元的内在制約説)(一定の場合には国家はすべての種類の人権を制限できるとすべき との価値判断が最初にあり、その条文上の根拠として「公共の福祉」が用いられ、公共の福祉とは…公平の原理である とする解釈が採られる) このように、公共の福祉を人権相互間の調整原理であると考えることによって、制約はすべての人権に内在するものという結論を導くことになる。そこで、「公共の福祉」という語は明文上、12条、13条、22条1項、29条2項にしかないものの、すべての人権が「公共の福祉」により制約され得ることとなる。

但し、そこでは制限目的の合理性と制限手段の合理性が必要とされ、これらの合理性がない立法は立法権の裁量を逸脱し違憲とされる。但し、制限目的や制限手段の具体的限界や司法審査における判断基準(合憲性判定基準/違憲審査基準)は、権利の性質によって異なる。

2009年06月06日

禁窯令と常滑焼

戦国時代、織田信長が瀬戸の陶器生産を保護するために天正2年「禁窯令」を出したことで常滑の陶器生産も一旦終焉を迎えたとする説がある。その初出は昭和10年代に刊行の旧『愛知県史』で、昭和49年刊の『常滑窯業誌』でも採用されている。しかし、この説に対して赤羽一郎は1983年の著書『常滑』で「禁窯令」の根拠とされる朱印状の文面は、焼き物生産すべてを禁止したのではなく瀬戸風の焼き物を他所で焼くことを禁じたと解釈すべきであること。常滑の窯の数の急減と市街地への集約は、天正期よりはるか以前に起こった現象であること、そして、天正期に生産された可能性の高い常滑焼は、中世城館跡などから少なからず出土していること、さらには瀬戸と競合関係にあるのは常滑ではなく、生産内容が類似する美濃焼であるべきで、実際15世紀から16世紀にかけて瀬戸の技術が美濃に流入している現象があるなどの理由をあげて、その「禁窯令」の常滑への影響を否定している。その後の日本各地の発掘調査によっても天正初期の極端な生産減少を認めることはできない。

江戸時代、常滑村・瀬木村・北条村の三か村で焼かれる焼き物を常滑焼と総称した。なかでも北条村に最も窯が多く、元禄七年の窯改めで常滑・瀬木が2基ずつであるのに対し、北条は8基である。その後、北条は享保年間に10基、天明年間に8基、そして、江戸末期の天保年間に11基である。常滑村と瀬木村については、その後の記録がないが江戸末期に1から2基の増加があった程度と推測される程度である。

近世常滑焼では高温で焼き締めた真焼(まやけ)物と素焼き状の赤物(あかもの)と呼ばれる製品群がある。真焼物は甕・壺を中心とするが、江戸後期になると茶器や酒器などの小細工物と呼ばれる陶芸品も登場する。一方、赤物は素焼きの甕や壺のほか蛸壺や火消壺、竈、火鉢などが中心となるが、江戸末期には土樋(どひ)とよばれる土管が赤物として登場してくる。

尾張藩侯の七・八代のころに北条村の渡辺弥平は、その命を受けて茶器・酒缶・花瓶などを作って上納したところ、いずれも賞玩され、それらが無名であることから元功斎の名を賜り、以後、作品に元功斎と記入することになったとされる。その後、常滑でも伊奈長三郎、上村白鴎、赤井陶然などの名工が出て茶器や酒器などに技を振るった。また、文政年間に稲葉高道(庄左衛門)は遠州秋葉山に参り、そこで伝来の「足利家同朋巽阿弥秘蔵 茶器三百五拾一品之内 茶瓶四拾三品」とある古写本を譲り受けて帰り、常滑で初めて急須を作ったとされる。また、杉江寿門堂(安平)は、安政元年に常滑の医者で急須の収集家でもあった平野忠司の指導を受けつつ、中国の茶壺の素材に近い朱泥を創出することに成功した。
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常滑に連房式登窯が導入されるのは天保年間のこととされる。同じ天保年間に二代伊奈長三は板山土と呼ばれる白泥焼の原料を見出し、この土に乾燥させた海草を巻いて焼くことで生まれる火色焼(藻掛け技法)を生み出した。連房式登窯は真焼窯とも呼ばれ窯詰めされたものが、すべて真焼けになるのに対し、従来の大窯では燃焼室寄りに置かれたものは真焼けになるが、奥の煙道よりのものは温度が上がらず赤物になっていた。江戸末期に登り窯が導入された背景には、常滑においても各種の小細工物が量産される状況に至ったことをうかがわせる。この登り窯導入を行ったのは瀬木村の鯉江小三郎(方救)で、その息子の伊三郎(方寿)も協力したといわれる。しかし、年齢を考えると天保年間に方寿が大きく貢献したとはみなしがたい。また、鯉江家は尾張藩の御用を勤めていたとされるが天保11年には尾張藩の御小納戸御用、御焼物師の役を伊三郎(方寿)が勤めている。そして、その「御焼物師 鯉江伊三郎」と銘を入れた壺が煙硝壺として伝存している。同形のもので、梅干壺とされるものもあり、その仕様を書いた安政七年の御掃除方役所が出した古文書もあるが、梅干壺は鯉江の窯で焼いた形跡がない。そして、梅干窯を焼いた窯として松本久右衛門の松本窯が知られている。この窯は流通業で富を得た松本家が陶器生産に参入した結果生まれたものながら、その操業にあたって従来の窯業者との間に大きな摩擦が発生したという記録がある。

2009年04月23日

慶雲2年(705年)4月

大納言の定員を2人削減するとともに、大宝令制定に伴い廃止されていた中納言が朝廷の議政官として復活し(「令外の官」の始まり)、高向麻呂・粟田真人・阿倍宿奈麻呂を任命した[4]。また大宝令で停廃されていた采女肩巾田(うねめのひれだ。采女の経費を充当するために出身地に置かれた田)を復活した[4]。同年11月にはこれまでの五位官人への食封を位禄に切り替え[5]、翌年には大宝令の規定を修正し、四位官人を位封の範囲に加えている。さらに官人の叙位に影響する評定年数の二年分短縮や、蔭位授与制度の調整など、官人機構の改革を行った。また、継嗣令の規定で皇親(皇族)の範囲を四世孫までとしていたものを五世孫まで範囲を拡げている[6][7]。

いっぽう、うち続く飢饉から農民の負担の軽減を図るべく、税制や貧窮対策を施している[6]。すなわち、畿内における調の人別徴収方式から戸別徴収への変更、庸の半減措置、義倉米(飢饉の際に貧民に支給するためにあらかじめ米穀を徴収・備蓄しておく制度)徴収法の緩和などの諸政策である。ただし、これらの諸制度改革は早くも奈良時代前期には見直されたものも多く、その実効性については評価が分かれる。また、王公諸臣が山川藪沢を不法に占有し、農民の利益を損なっているとして、大宝令遵守を求める詔勅も出されている。

このように慶雲の改革は、大宝律令の施行に伴う不具合を調整することを意識して行われたものであり、さらなる国家体制強化を図ろうとする性質のものであった。

元明朝へ
しかし、改革が進行中の慶雲4年6月、文武天皇は崩御してしまう。遺子の首皇子(後の聖武天皇)はまだ幼かったため、文武天皇の母である阿閇皇女が即位するという異例の措置がとられ、元明天皇となった。

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元明朝においても国制改革はさらに加速し、和銅元年(708年)には、初の流通貨幣である和同開珎の発行[8]、および長安の造形に倣った本格的都城となる平城京遷都の詔が発せられた(平城京は長安と同じく大極殿を北端に置く。実際の遷都は2年後の和銅3年)。また同年、越後国に出羽郡(後の出羽国)が設置され、出羽柵を中心に蝦夷征討が開始、南でも隼人の入貢を促す(和銅6年(713年)には大隅国を設置)など、辺境の国土確定も積極的に行われた。この間も律令の不具合を修正する格式や律令本体の改訂作業は、藤原不比等らを中心に続けられており、後の養老律令制定につながることになる。

2009年04月19日

イギリスのインド支配

往時にはインド亜大陸の大半を支配したムガル朝が18世紀初頭に衰退をみせ始めると、各地の豪族は自立し、しばしば互いに争った。イギリス東インド会社がそれに介入し、1757年にはフランス東インド会社軍と現地豪族との連合軍をプラッシーの戦いでうち破って、イギリス側の勝利を決定づけた。さらに、フランスとの3回にわたるカーナティック戦争に勝利したイギリス東インド会社は、ベンガル、オリッサ、ビハールの徴税権を獲得し、いわばインドにおける土着諸侯のひとつとなった。東インド会社はさらに、1767年から都合4回にわたって繰り広げられたマイソール戦争で南インドのマイソール王国を、1775年から都合3回発生したマラータ戦争でデカン高原に広がるマラータ同盟を破るなど、インド各地の豪族を次々に屈服させてその支配領域を広げ、友好関係にある豪族には会社軍を派遣して駐留費を負担させる軍事保護条約を結んで彼らを会社に従属させた。東インド会社は貿易企業から南アジアを支配する政治権力へと脱皮していった。

その後、ウィーン議定書でセイロン島を獲得し、1816年にはネパールを支配下に入れた。そして、1845年から1849年にかけての2回のシク戦争ではシク教徒が多数を占めるパンジャーブ地方を支配下に置いた。この過程で、イギリス本国では、東インド会社が特権を有し領土を支配する形態に異議が唱えられた。1813年には会社のインド貿易における独占権は廃止され、1833年頃には中国貿易の自由化が決定して、東インド会社は商業活動を停止させられた。
ファナテ ピータ ロール ネット ズック リゾラバ 君の瞳 バラブル ハンズ グラジ カナル ウェア ポテト イオン トッピグ タイペイ ライボー ナビスカ セリング サーマル リシン ぐんじょ かぼちゃ ワラビ ジェトロ 中葉春菊 てつむぎ スケボー ヨセミ カノ最新 カーゴ たかのす クチン マツバ 紅葉坂 リミット セイウチ 曼珠沙華 ブレード ワンマ イエロー スクリ キラー ヒュー フリージ スチナ さいさく パピル ライク キッズ


イギリスは、ザミンダーリー制、ライヤットワーリー制といった徴税制度を確立し、インドの農民から税金を収奪する仕組みを構築していき、そこで上がった税収を元手に鉄道や通信網を整備した。また、イギリス本国から輸出される工場生産による大量安価な綿織物は、従来のインド地場産の手織の綿布・綿織物工業を圧迫し、1820年代にはインドはイギリスの原料供給地・製品市場に転落した。カール・マルクスが「英国帝国主義者たちは、インド手紡ぎ職人の白骨で大地を白く染めた」[2]と述べたように、インドの手工業は壊滅状態に陥り、農村共同体も破壊された。

2009年04月04日

旭國斗雄

旭國 斗雄(あさひくに ますお、1947年4月25日 - )は、元大相撲の力士。最高位は大関。北海道上川郡愛別町で農家の3男として生まれる。本名・太田武雄。現役時代の体格は174cm、121kg。血液型B型。現在は年寄・大島として大島部屋を経営、日本相撲協会理事・巡業部長。
幼い頃からスポーツが得意で中学校時代は野球をしていた。3年生の時に人数不足から相撲部の助っ人として大会に出場して優勝し、大島親方(元前19・若浪)を紹介され昭和37年(1962年)、立浪部屋に入門した。しかし小柄だったため、床山の新弟子と間違われた。新弟子検査では4場所続けて不合格にされ諦めかけたが、兄弟子や親方に励まされてもう1度受けることを決意、幸運にもその時(昭和38年=1963年7月場所)検査を担当したのが師匠の立浪親方(元横綱・羽黒山)だったため目零しで合格の判を押してもらえた。

幕下時代に盲腸の手術を受けたが傷が癒える前に稽古を始めてしまい、しかも大酒を飲んだのがたたって膵臓を患い苦しまされた。昭和44年(1969年)7月新入幕。しかし昭和45年(1970年)3月に急性胆嚢炎で途中休場し、翌場所は勝ち越すも7月に大負けして十両陥落。昭和46年(1971年)11月に再入幕したが翌場所膵臓炎で休場してしまい陥落。昭和47年(1972年)5月に再々入幕しようやく幕内に定着する。小結だった昭和50年(1975年)3月は膵臓炎で入院し初日から休場したが点滴が終わると病院を抜け出して稽古をしていた。医者に「こんな体で相撲取ったら死ぬぞ」と警告されても「土俵で死ねれば力士の本望」と10日目から出場して4勝2敗。背骨の両脇に上下に並ぶ鍼の跡の絆創膏が大きく目立った。翌場所11勝して三役に復帰すると定着し昭和51年(1976年)1月関脇で12勝3敗、大関獲りとなる3月は13勝2敗で横綱・輪島との優勝決定戦に出場、敗れはしたが大関に昇進した。28歳11ヶ月での新大関昇進は、年6場所制が定着した昭和33年(1958年)1月場所以降初土俵の力士では当時最年長であった(現在は琴光喜が記録を保有)。また、5月場所は、 3大関という事で、ファンサービスの為初日に大関同士の取り組み(対貴乃花戦)が組まれた。

大関になってからも膵臓炎の影響で満足な成績を出せる場所は多くはなかったが昭和52年(1977年)9月は誰もが驚く絶好調、連戦連勝で横綱・北の湖と優勝争いの先頭を併走、直接対決に敗れ優勝はできなかった(北の湖は全勝優勝)が堂々の14勝だった。しかし綱獲りとなる11月は8勝に終わり横綱昇進は果たせなかった。それでも持病の膵臓炎で度々入院治療を続けながら、翌昭和53年(1978年)3月7日目、魁傑との取組で水入り、再度水入りの大相撲となり、勝負がつかず10分後に取り直しとなり、これも大相撲となって3度目の水入りかという寸前に力尽き掬い投げで破れはしたが(結局、合計10分19秒の大熱戦となった)、場所前に退院したばかりの旭國にとっては正に「土俵上で死ねたら本望」とも言うべき力士にとって鑑であり、いくら敗戦であっても納得のいく一番であっただろう。昭和54年(1979年)9月、7日目同期生である新横綱・三重ノ海との対戦で負傷、再起は難しいと考えて引退した。引退に際し「1度は優勝したかった」と言った。

闘魂という言葉が好きで四股名の下の斗雄も闘魂(斗魂、鬦魂)からつけ、化粧廻しにも「斗魂」を染め抜いたものを好んで用いた。しつこく食い下がる取り口のために「ピラニア」、研究熱心で巧みな技を使うことから「相撲博士」の異名があった。腕が短くて相手のまわしを取ることが困難な事から編み出された「とったり」は、旭國の得意技であった。

現役引退後は年寄・2代大島を襲名、分家独立して大島部屋を開設した。その後、横綱・旭富士、小結・旭道山、旭豊、幕内・旭豪山、旭里らを育てる。また、平成4年(1992年)には当時外国出身力士の入門は自粛の方向にあったなか、クビを覚悟で初めてモンゴルから6人をスカウトした。その内間もなくして3人はモンゴルへ帰国したが、その内3人が日本に残った。モンゴル人として最初の十両・幕内力士となった、小結・旭鷲山は平成18年(2006年)11月場所限りで引退、幕下・旭天山も平成19年(2007年)11月場所限りで引退したものの、関脇・旭天鵬は現在も現役力士である。なお、旭天鵬の日本国籍取得に際して養父となり、定年退職後は大島部屋を旭天鵬に継承する予定である。長男旭萌天、次男旭照天も大島部屋に入門したが、旭萌天は三段目までしか昇進できず引退、旭照天も幕下と三段目の往復が続いている。

また、現役時代のライバルだった二子山親方(元大関・貴ノ花)とは親友だった。平成17年(2005年)5月、二子山親方死去の際通夜の席で、子息の貴乃花親方(元横綱・貴乃花)の事で生前二子山が悩んでいた事を打ち明けている。

主な成績 [編集]
通算成績:635勝479敗72休
幕内成績:418勝330敗57休
幕内在位:54場所
三賞:技能賞6回、敢闘賞1回
金星:2個(北の富士1個、琴櫻1個)

マニャック フォーク 苺姫 夕べの鐘 オロシ メイド セル チウム スケート オカラヌス ジャグ スマイル 平安夢 リッジ ブング トランプ クション カセット スピリ ラフォーン シーダ トリプル ビロード ウエルト リング ネゲブ あかぼり ピグミー ラッフル シンカー リスク だいふく マシン バルク フリスビー キエフ ミルミル マルキ タッチ セグメント ネブラス セニョー ハマス とりゅふ アップ リヤス ラピス べにかば メモ スキーデ

2009年03月20日

特急「ひばり」登場と周辺列車群

1961年(昭和36年)10月 「サン・ロク・トオ」と後に称される白紙ダイヤ改正が行われ、以下のようにダイヤが組まれる。
上野駅?仙台駅間の不定期特別急行列車として「ひばり」を設定。
運転開始当初は、キハ82系を使用し、所要時間4時間53分。しかしキハ82系がダイヤ改正時では落成しておらず、実際の運転開始は翌年4月からであった。
当時は交直両用の特急形電車は開発中であったことから、走行区間は全線電化区間ながら気動車での設定となっている。
「みやぎの」は、東北本線経由に変更。上野駅?福島駅間は上野駅?秋田駅間運行の急行「鳥海」を連結。
「吾妻」は、編成替えをして上野駅?会津若松駅間を運行する急行「ばんだい」を連結する。
上野駅?仙台駅間を運行する夜行準急列車「あぶくま」運行開始。
「しのぶ」1往復増便をする。
1962年(昭和37年)10月 「みやぎの」・「青葉」、上野駅?仙台駅間単独運行に戻され、451系電車により運行される。
1963年(昭和38年)10月 ダイヤ改正に伴い、以下の様になる。
「ひばり」定期列車に昇格。
「しのぶ」1往復を仙台駅まで運行区間を延長し「みやぎの」1往復増発。
「松島」の一部を電車化。
「あぶくま」を盛岡駅まで延長し上野駅?盛岡駅間運行の寝台急行「北星」(ほくせい)運行開始。
上野駅?秋田駅間運行の特急列車「つばさ」の一部を盛岡駅発着とする(車両落成の関係で実施は12月より)。
1964年(昭和39年)3月 急行電車増備に伴い、以下のように変更する。
「松島」・「吾妻」定期列車については全列車電車化され、愛称も「まつしま」・「あづま」とひらがなに改称。なお、臨時列車についてはそれぞれ気動車列車が残ることとなった。
「青葉」夜行列車化。
1964年10月 上野駅?仙台駅間運行の寝台急行列車「新星」(しんせい)運行開始。
1965年(昭和40年)10月 電化区間が盛岡駅まで延伸されたことに伴い以下のようにダイヤが変更される。
リーゼント ミニスト 検索うり きえいよこ マンテ コニャック デュレ ピッコロ サイレン ブリストル カレワラ タワー国内 システ はけご フィット 砂時計 ドレート シェフレラ リラキ 純潔 プランナ モダニスト オフサイド サステナ チリソース フクシア ブルー タグボ ゴスペル ラシャ テキント ファロス うばざくら パンドラ エレガ チャネリ オート 紅梅 チキク イオ次 ブラック ドアチェーン パドル ローラシ かいこう 亀王 クロノ タックル マンス インワン

「ひばり」交直両用特急形電車・483系が開発され、同形式による運転となり、2往復に増発。
「ひばり」については、その後、485系が使用されるようになり、583系も使用されることがあった。
「いわて」電車化され、運行区間を再び盛岡駅発着となる。
「青葉」運行区間を盛岡駅まで延伸し、列車名称を「きたかみ」に変更する。
「つばさ」の盛岡駅発着編成を分離し、電車列車化。「やまびこ」の愛称を新たに与える。
「みちのく」を1往復増発。ただし、運行区間を上野駅?陸羽東線鳴子駅(現:鳴子温泉駅)・青森駅経由奥羽本線大鰐駅(現:大鰐温泉駅)間とし、「みちのく(下り)1号・(上り)2号」を名乗る。従来上野駅?青森駅間運行の列車は「みちのく(下り)2号・(上り)1号」を名乗る。
1966年(昭和41年)10月 東北本線経由で上野駅?青森駅・盛駅・久慈駅間を運行する急行列車として、「三陸」(さんりく)運行開始。また、「みちのく(下り)1号・(上り)2号」の運行経路を改め、上野駅?鳴子駅・釜石線経由宮古駅・花輪線経由弘前駅間の運行に改める。
1967年(昭和42年)7月 磐越西線郡山駅?喜多方駅間電化に伴い、「ばんだい」電車化。これにより、一部の「いわて」・「あづま」に「ばんだい」を連結する。
1967年(昭和42年)10月 このときのダイヤ改正に伴い、以下のように変更する。
「ひばり」1往復が東京駅発着となる。
「まつしま」に「ばんだい」を連結する列車も登場。
気動車による臨時「あづま」は不定期運行となる。

2009年03月05日

白面金毛九尾の狐

白面金毛九尾の狐(はくめんこんもうきゅうびのきつね)は、広義には九尾の狐の一種(亜種)に分類されるが、狭義にはこれ自身を指すこともある。 他の呼び名として、「金毛九尾の狐」、「三国伝来金毛玉面九尾」などがある。また「金毛」の読み方としては、「きんげ」あるいは「きんもう」などとされることもある。

ここでは日本史上最強の妖怪の一つとして挙げられる一体(一人、一匹)の妖狐を主に扱う。すなわち、妲己、華陽夫人、褒姒、玉藻前を同一と解釈する伝説を紹介する。
シンジケ ビシー リング 毬つき パイラ ハート ピーフォ プロフ たらのき ドロー サバラン かっぽう レッドベ カード シップ バーディ デシジョン たらのき キャスク レザー ギブアン デコーダ トップ パパイヤ バイオレ オロジー テルミン テンレポ カクタス モスク もくず ミシンポ ワンコイン フォルシェ ブルガリア トロント ルーメン タウン オーソス シライド おにしま レーサコテ ファイン パワー バカロ ショーツ メニュー ヤングリ マイカー ふとう

白面金毛九尾の狐の姿は諸説あり、主なものに、人間の姿をした九尾の狐という説と、本来の狐の姿をした九尾の狐という二つの説がある。顔は白く、金色の髪(毛髪、体毛)を持ち、九つの尻尾を持つ。また「玉面」とも呼ばれることから、「白」の意味は元々「美しい」という意味で与えられた表現とも考えられている。強大な妖力(霊力・神通力とも)の持ち主であり、その強さは全ての妖狐の中でも最強と云われている。

なお、九尾の狐、及び傾国の悪女を狐狸の精になぞらえる、と言うモチーフは中国から伝わったものと見られている(『山海経』や『封神演義』を参照のこと)が、玉藻前の事跡に関する伝説、及び白面金毛九尾の狐を、中国、天竺、日本をまたにかけた三国一の大妖怪とする表現は、日本国内に伝わってから付加された伝承と見られる。

経歴
前11世紀頃、中国古代王朝殷の最後の王である紂(ちゅう)の后、妲己を喰い殺して彼女に化け、酒池肉林、炮烙(ほうらく)の刑等を編み出し、暴政を敷いた。周の武王率いる軍勢により捕らえられ、処刑された。またこの処刑の際に、妲己の怪しげな術によって首が切れないとき、太公望が照魔鏡を取り出して妲己にかざし向けると、白面金毛九尾の狐の正体を現して逃亡しようとした。太公望が宝剣を投げつけると、九尾の体は3つに飛散したと云われている。
南天竺(古代インド西域)の王子班足太子の妃・華陽夫人となり、王子へ千人の首をはねるようにそそのかすなど暴虐の限りを尽くす。
前780年ごろ、褒姒という女性に化け、申后に代わって周の第12代の王、幽王の后となる。褒姒がなかなか笑わないので、幽王はさまざまな手立てを使って彼女を笑わそうとし、ある日何事もないのに王が烽火(のろし)を上げ、諸侯が集まったという珍事に初めて笑ったといわれ、それを機に王は何事もないのに烽火を上げ、諸侯が烽火をみても出動することが無くなり、後に申后の一族が周を攻めたとき、王は烽火を上げたが諸侯は集まらず、王は殺され、褒姒は捕虜にされたといわれている。
753年、若藻(わかも)という16、7歳の少女に化け、彼女に惑わされた吉備真備の計らいによって、阿倍仲麻呂、鑑真和尚らが乗る第10回目の遣唐使船に乗船。嵐に遭遇しながらも来日を果たしたといわれている(第9回の遣唐使に来日という説もある)。
来日から約360年後(1113年頃か)北面の武士である坂部行綱(さかべゆきつな)が子宝に恵まれなかったため、九尾の狐が化けたとも知らずに藻女(みずくめ)という捨て子を拾い、大切に育てられる。
17年後(1130年頃か)、坂部夫婦に大切に育てられた藻女は18歳で宮中に仕え、玉藻前(たまものまえ)と改名する。その才能と美貌、優しさから、次第に鳥羽上皇に寵愛され、契りを結ぶこととなる。しかしその後、鳥羽上皇は病を発する。そして、その原因が玉藻前であると発覚し、玉藻前は白面金毛九尾の狐の姿で宮中から逃亡した。
数年後、彼女は下野国・那須に現れ、婦女子や旅人を誘拐し喰い殺すなどの暴行を働いたため、鳥羽上皇は白面金毛九尾の狐の討伐を命令。8万の軍勢が那須へ集結する。軍勢は白面金毛九尾の狐を捕らえて殺すことに成功する。九尾の狐はその直後、巨大な毒石(殺生石)に姿を変える。
室町時代初期、会津・示現寺を開いた玄翁和尚によって、殺生石は破壊され、各地へと飛散する。

2009年02月14日

蒼海の皇女たち

エウシュリーの別ブランド・アナスタシアから発売されたアダルトゲーム第3作目。第二次世界大戦風の架空舞台で繰り広げられる海上通商破壊戦、女性士官および下士官、兵たちの戦いを描いた潜水艦戦ADV。全9章構成。
ユーロ ドラゴン セカンド ナビラッコ バリヤ サーチ天延 セスカーナ ユッカ 京いも パレス レオタガ オマーン フライト リポジ ピンク チャコール サドルシ ライト じゃじゃん シキミ エッジ カチュ クロロ 学園天国 ソワレ ダイレーザ ハンサム シート ニアピン ロハス ラナン ソコン かすかわ 星のフラ シューズ フーズ トレーサー ターピース ルカラー 天羽 シャープ パオトウ くずまき マミー スウェ フォトカ そけい メトニミ フランス スリーエム

プレイヤーは艦長となって、コマンド選択式による“指揮”を行いながら、乗員達の信頼を勝ち取り、敵艦の搜索と水中投下された爆雷攻撃を回避して、任務完遂を目指せ。

ADVパートでは隨所カットインと3Dムービー演出を使用し、映画さながらの雰囲気のなかで物語が進行していく。

地下資源と内海の覇権を巡る争奪戦に参戦したノーデンフェルト国。戦争中深刻な兵員不足に陥った同国の軍部は、窮余の策として女性兵士の前線投入を決める。そして女性クルーのみで編成された、一隻の新鋭潜水艦を配備するのだった。

そんな個性派の彼女たちのまとめ役として白羽の矢を立てられたのが、主人公である新米艦長・アアル。

蒼海の果てに待ち受けるは戦捷の栄光か、それとも……!?

アアル・ヴァンリート
ノーデンフェルト海軍大尉・潜水艦ウルディアーナ艦長、本作の主人公。
初艦長で乗組員が女性だけという環境に不安を持っている。
スティア・ノール
声:井村屋ほのか
ノーデンフェルト海軍中尉・先任将校である。艦長の次に指揮権を持っており、上官の命令に忠実に従う。
ルアッカ・シュテルエーダ
声:榎津まお
ノーデンフェルト海軍少尉・次席将校。甲板砲および対空兵装の指揮、また無線通信設備の監督をしている。クールで真面目だが、女としての隙が多い。
リノ・バーデ
声:大花どん
ノーデンフェルト海軍航海兵曹長、規律に謹厳しい優等生。人に付き合いを好まず、仲間とも無用な会話は一切しない。
航海士としても一流であり、潜水艦への物資積み込み際には総重量などを計算し、的確な結果を出してくれる。
サフィーヌ・クリッツェン
声:風音
ノーデンフェルト海軍上等掌帆兵曹、医療や風紀管理を担当。屈託のない態度で主人公を誘惑しては、からかってくる。
風紀を担当するに当たって、最低限の規則を守れない場合には自ら怒り威圧・説教をする。怒った場合、誰も逆らえない状況に陥る。
外見だけで、処女を見破ることができる。
メリーカ・ボルフェート
声:桜川未央
ノーデンフェルト海軍二等水雷兵曹、魚雷や砲を扱う水雷科員のリーダー。山岳部族の出身で、非常に気が強く喧嘩っ早い。そしてツンデレ。
祖父を敵に殺されたことから、一隻でも多くの船を沈めようと努力する。
ウルリケ・グレーシェル
声:細田なな
ノーデンフェルト海軍三等電信兵曹、電信、無線、聴音の責任者。潜水艦乗りに志願した富豪の令嬢。外国語に堪能。高飛車な性格。
親は兵器産業関係の会社を設立しており軍に関係を持っている。軍に面識のある親をあまり心良くはしていない。
ラーニ・カペル
声:佐本二厘
ノーデンフェルト海軍四等電信兵曹、ウルリケとともに電信、聴音を担当。隻眼に補うために、聴力が異常に発達している。
兵員の不足を補うため、海軍学校の在学中に搭乗を命じられた。ウルリケとは対照的に温厚で無口。
海鳥の鳴き方・飛び方から雷雨の到来を予測したり、声の周波数の違いで相手の喜怒哀楽がわかる。
ヴィルフィエーデ・ゲルネ
声:桃井穂美
ノーデンフェルト海軍少尉、機関長。姉御肌で面倒見が良く公私共に人望があり、機関部全体を管理する。なお、攻略対象ではない[1]。
リリ・クルプケ
声:榎津まお
ノーデンフェルト海軍一等電気機関兵曹、電動機・バッテリーの責任者。
小柄かつ内気で、知識と実力は持っているが、頼もしさに欠ける。「エンブラ」という小鳥を飼っている。もとは兵員の不足を補うために民間から募集されたエンジニアであり、生粋の軍人ではない。
モイア・フラーゼ
声:白井うさぎ
ノーデンフェルト海軍四等操舵兵曹、寡黙で落ち着いた雰囲気で、無駄口をたたくことはほぼ皆無。異国の民の血やフェルレーア(敵国)の血も流れている。なぜか人事調書には三世代前までしか記載されていない。
ドミニク・リードレ
声:前田恵
ノーデンフェルト海軍上等水雷水兵長、メリーカのことを尊敬し慕っている砲兵装の兵員。メリーカと同じく好戦的。
ヴァーニャ・ヤーデン
声:桜川未央
ノーデンフェルト海軍一等水兵、ほんわかまったりとした雰囲気と口調で愛嬌がある料理長。

その他
パウラ・グラーツ
声:白井うさぎ
ノーデンフェルト海軍少佐・潜水艦ファ・イスト艦長。主人公の元上官、部下思いで理想的な艦長の風格を持つ潜水艦隊初の女性艦長。
イザーク・ベルクレイン
多くの潜水艦艦長が親父と呼んで慕っている南方潜水艦部隊指揮官。
グリーサス・ノール
スティアの兄で“深淵の白狼”の異名をとる潜水艦トップエース。
ジムゾ・フェラー
ノーデンフェルト国の総統。

潜水艦ウルディアーナ
潜水艦フレイアを改装した女性用艦。あちこちに伝統の伝声管などがある。なお、ノーデンフェルト海軍では女性将兵は指定の縞模様の下着を着用することとなっている。

排水量:769t
全長:66.5m
全幅:6.2m
全高:9.5m
出力:水上3,200hp、水中750hp
最高速度:水上17.2kt、水中7.6kt
巡航速度:水上10kt、水中4kt
兵装:53cm魚雷発射管×4、88mm単装砲×1、37mm単装対空機関砲×1、20mm連装対空機関砲×1
乗組員数:43名

2009年01月27日

F-106 (戦闘機)

F-106はF-102の性能向上版としてコンベア社が開発しアメリカ空軍ADC(防空軍団)で使用された戦闘機(要撃機)。愛称はデルタダート(Delta Dart)、シックス等。初飛行は1956年。俗にセンチュリーシリーズとよばれるもののひとつである。

アメリカ合衆国本土をソ連の爆撃機の編隊から防衛するための新時代の防空システムを実現するため、アメリカ空軍は高度に自動化された自動防空戦闘機の開発に着手し、まず電子機器メーカー18社に対して戦闘機用の電子管制システム(ECS)の開発提案を提示し、提出された提案書の中からヒューズ・エアクラフト社のMX1179システムを選定した。これと並行して空軍は、航空機メーカー19社に対して地上自動防空管制システムに組み込まれて運用される迎撃機の開発要求を提示した。これに対して6社から9通りの開発提案が寄せられ、1950年10月にコンベア社のYF-102案が採用された。

YF-102は最初から量産機を生産する「クック・クレイギー計画」に基づいてF-102 デルタダガーとして制式化されるが、開発段階でトラブルが発生して計画が大幅に遅れ、さらには所期の要求性能が得られないこともはっきりしため、アメリカ空軍は目標とする完全自動防空戦闘機開発に目処がつくまでの繋ぎとしてF-102Aを生産することにし、その上でF-102Aをベースに改良発展させたF-102Bを開発しようと考えた。このF-102Bは最初からMX1179システムを採用することが決定しており、要求性能もF-102Aとは違っていたため、1956年6月にF-106Aと改称された。また、新たに最大速度マッハ2以上、上昇限度2万1300m以上、戦闘行動半径378nm以上という厳しい要求性能が与えられた。
むろら バイラ プラズマ スプロー ディスト ラリー シリンダー ペツォ メイドカ 検索いふ スワン マンサク アーモンド オーバー カミソール セルフレ ワイウク 氷の世界 リット ジャムパン マンナ ロファ ターニュ トウチク ゴデチア ぽっぽ 幸せ ハードカレ キューム パイソオ セクレ リファンド お猿岩 鳳仙花 スタート マテハン めんか キャンベラ タメ口 ブリーフス シオン 最新検索 アフレコ モダンジ ストマイ ライン フローベ ウィザード ちとう ディエフ

F-106A量産初号機は1956年12月初めにコンベア社のサンディエゴ工場でロールアウトし、同年12月26日にエドワーズ空軍基地で初飛行した。量産2号機も1957年2月26日にサンディエゴのリンドバーグ飛行場で初飛行し、この2機による飛行試験が行われた。飛行試験では、期待されていたよりも性能は悪く、最大速度はマッハ1.9、しかもマッハ1を越えてからマッハ1.7まで加速するのに4分30秒以上もかかることが判明し、さらに上昇限度は目標値に遠く及ばず精々1万7370mがやっとという、とても実戦では期待出来ないことがはっきりした。この問題はエンジンが必要とする空気流入量が設計値よりも大き過ぎたためで、エアインテイクのデザインを変えることで大きく改善された。また、自動兵装管制装置(AWCS)のMX1179の実用化が遅れ、1958年にMA-1として完成するが、アメリカ空軍は当初予定していた40個飛行隊に1000機以上のF-106Aを配備する計画を断念した。それとともに当時、アメリカ空軍がF-106Aと並行開発していたF-101B ブードゥーによって代替できるのではないかという議論が持ち上がった。しかし、アメリカ空軍防空軍団はF-106AとF-101Bはそれぞれ特徴が異なり、互いに補完し合うものであるとの理論武装を固めF-106のキャンセルを防いだ。だが、こうした議論の中でF-106の調達機数は大きく削減され、最終的にF-106Aが277機とF-106Bが63機となった。

機体
F-106の主翼には、翼端失速を防ぐために主翼前縁にコニカル・キャンバーが付けられ、主翼後縁はエレボンとなっており、エレベーターとエルロンを兼ねた働きをする。胴体は最初からエリアルールが採用され、エアインテイクも主翼付け根前縁部付近まで下げて設置したことによって、より洗練されたスタイルとなった。機体尾部では整流フェアリングを撤去したことで、垂直尾翼は全高を大きくすることなく面積を増せるため、翼端をカットした後退翼に変更されている。

機首部にはMA-1AWCSを搭載しているが、MA-1AWCSは当時としては複雑なシステムで、真空管を使っていることもあって重く、実用化後も改修が実施されている。MA-1AWCSは、半自動地上管制迎撃システム(SAGE)と完全にデータリンクし、F-106の自動操縦システムと組み合わせて追跡コースまたは見越し衝突コースでの自動迎撃が可能となっている。

装備
ジニー空対空ロケット弾を発射するF-106AF-106にはハードポイントが主翼下片側1箇所と胴体下部5箇所の計7箇所あり、武装はF-102の性能向上版であるため、機銃は搭載せず、AIM-4E/F/G スーパーファルコン空対空ミサイル、AIR-2A ジニー空対空核弾頭ロケット弾を機内弾薬庫に搭載する。1969年のシックスシューター計画において、AIR-2Aと置換する形で胴体下部フェアリングM61 バルカンの搭載が可能となったが、ごく一部の機体のみが装備したにとどまる。

なお、派生型として複座型のF-106Bがあり、練習機を兼ねる機体となっている。複座型が練習機と実戦機を兼ねるのはF-102でも試みられたものの、座席配置がサイド・バイ・サイドで操縦席が横に広がり、空気抵抗が増して音速を超えられず、純粋な練習機TF-102Aとなった。本機はそれを反面教師として、燃料タンクをつぶして後部座席を設け、タンデムシート形式となった。燃料が減少し航続距離が小さくなったが、それ以外の性能は単座型とほぼ同一である。

運用
F-106Aは1959年6月に最初の実戦部隊であるゲイガー空軍基地の第498戦闘迎撃飛行隊に配備され、同年10月31日からアラート任務に就いた。1959年末までに3個飛行隊がF-106Aへ機種転換を行い、1960年には9個飛行隊が機種転換を実施して最終的に21個飛行隊がF-106Aを運用することになった。

ただ、F-106は開発の遅延を取り戻すために未完成の部分を多数残したまま急ピッチで部隊配備が進められたため、運用中に様々な問題が噴出した。防空軍団では初期量産型を最新の量産型のスタンダードに合わせるためには130箇所の機体改修が必要だとして、1960年9月に第1期改修計画の「ワイルドグース計画」を実施した。これに続き、ほとんど間を置かずに「ブロード・ジャンプ計画」が行われ、赤外線捜索追跡装置(IRST)の追加装備などが行われた。ブロード・ジャンプ計画では1機あたりの改修に60日も掛かり、全機の改修完了は1963年初めとなったが、その間の1961年8月から1962年4月までに射出座席の換装や核爆発の閃光や熱線からパイロットを保護するサーマルフラッシュ・フードの追加、燃料系統の改良などを行う、「ダートボード計画」も同時進行で行われた。F-106への改修はこれ以外にもMA-1AWCSの改良や戦術航法装置(TACAN)の更新、空中受油装置の追加、超音速増槽の運用能力付与などが行われた。

防空軍団ではさらに、複雑なシステムを簡素化させる「兵站簡素化整備性向上(SLIM)計画」を推進したが、1968年にロッキード社がF-106の後継機として提案したYF-12への対抗案としてコンベア社が提示していたF-106の発展案F-106Xに興味を示し、F-106X計画へ乗り換えた。F-106X計画では、エンジンを換装して2次元がたエアインテークに変更するなど機体設計を変更、またレーダーを新型に換装しAIM-47空対空ミサイルの携行能力を付与するというものだったが、予算削減に伴ってYF-12とともにキャンセルされ、これによりSLIM計画が復活し、1969年に「必要最小限システム信頼性向上(MAISR)計画」としてレーダーや自動操縦システムの改良が図られた。

F-106 は防空軍団(ADC)の主力戦闘機として、アメリカ合衆国本土、アラスカ、アイスランド、カナダに配備され、北極超えで飛来するソビエトの爆撃機に備えていた。また西ドイツ(当時)と韓国にも短期間配備されていたが時代の推移に伴って、ソ連空軍爆撃機によるアメリカ本土攻撃の脅威が低減していくにつれ、アメリカ空軍の要撃戦闘機運用にも変化が生じ、1979年6月に防空軍団が解体されてF-106は戦術航空軍団と州航空隊に移管された。また、F-106やF-101が能力的に陳腐化していった後も結局、後継機となる本格的な防空要撃戦闘機が開発されることはなかった。

アメリカ戦術航空軍団のF-106は、グリフィス空軍基地の第49戦闘迎撃飛行隊が1987年7月に閉隊されたのを期に実戦部隊から退役し、州航空隊ではニュージャージー州航空隊の第119迎撃飛行隊がで1988年8月まで運用されていたのを最後に全機が退役した。その後、退役した機体は無人標的機QF-106に改修され、1998年1月まで使用されていた。

F-106 が実戦で米本土を防衛することはなかったが、MiG-21 に特性が似ていたため、ベトナム戦争に派遣されていた F-4 の仮想敵機として訓練に参加した。F-106 の加速力と低翼荷重による高空での高い運動性能は F-4 パイロットをてこずらせたといわれている。

派生型
QF-106F-102B:F-106Aの最初の名称
F-106A:単座全天候要撃機。277機生産。
F-106B:複座訓練機。63機生産。
NF-106B:臨時試験用F-106B。2機。
F-106C:計画のみ
F-106D:計画のみ
F-106E:計画のみ
F-106F:計画のみ
F-106X:計画のみ
QF-106:エクリプス・プログラム使用機(NASA)

仕様
以下のスペックに関する文献などの情報源を探しています。ご存じの方はご提示ください。
諸元
乗員: 1
全長: 21.55 m (70 ft 9 in)
全高: 6.18 m (20 ft 3 in)
翼幅: 11.67 m (38 ft 3 in)
翼面積: 61.52 m2 (661.5 ft2)
空虚重量: 11,077 kg (24,420 lb)
運用時重量: 15,670 kg (34,510 lb)
最大離陸重量: 18,975 kg (41,833 lb)
動力: P&W J75-P-17 アフターバーナー付ターボジェット, 109 kN (24,500 lbf) × 1
性能
最大速度: 2,455 km/h (1,326 kt)
フェリー飛行時航続距離: 4,260 km (2,300 nm)
航続距離: 2,963 km (1,600 nm)
実用上昇限度: 17,374 m (57,000 ft)
上昇率: 147 m/s (29,000 ft/min)
翼面荷重: 255 kg/m2 (52 lb/ft2)
推力重量比: 0.71
武装
固定武装; M61 バルカン 20 mm ガトリング砲 × 1
ミサイル;
AIM-4F スーパーファルコン × 2 セミアクティブ・レーダー誘導空対空ミサイル
AIM-4G スーパーファルコン × 2 赤外線誘導空対空ミサイル
AIR-2A ジニー 空対空核ロケット × 1